「ゼロさ〜ん…v」
とある土曜日の午後、15時過ぎ。
ゼロさんが間借りしている部屋の扉を、スーッと俺はなるべく音を立てないようにしてゆっくり開けた。
「……って、あれ?いねーし」
小奇麗に整頓されたゼロさんの部屋は、いつ見ても俺の部屋と同じ間取りの部屋とは思えねぇくらい広々としている。
ゼロさんがいつも使っているフトンも今日は部屋の隅にキレイに畳まれて置いてあって―――ゼロさんの姿は、当然のように部屋の中にはなかった。
「ちぇっ…、んだよ…」
ついこないだまで、この時間のゼロさんはこれから夜のバイトのためにいつも部屋で昼寝してたのにな。
ゼロさんがエア・トレックを始めてからというもの、それの練習とバイトのシフトとで、ゼロさんがいつ部屋に居るのかがさっぱり分かんなくなっちまった。
力なく俺は部屋の扉を閉めた。そしてトボトボと玄関に向かい廊下を歩き出した。
「あーあ…。今日はせっかく西中との年に一度の大バトルだし、俺様の活躍ゼロさんに観てもらいたかったっつーのに…」
「なにが大バトルなんです?イッキ」
「…げっ…!?」
後ろから凛とした声が突如聞こえ、俺はあわてて後ろを振り返る。
いつもは"仕事"で家にいねぇハズのリカ姉が、今日は珍しくエプロン姿でそこに立ってた。
「リリリリカ姉!?帰ってきてたのかよ!?」
「ええ。昨晩はわりと近場で試合があったので。また明日一番でチームに合流しなくてはいけないのですが、少しの間でもみんなと団欒をと思って戻ってきたのです。
――――ところでイッキ〜?」
「うっ…;」
リカ姉が怖いくらいの笑顔を浮かべ、つつーっと俺のそばに寄ってくる。口からはチロリッと蛇の舌。
……ヤバイ。なんかしらねーけどスゲー怒ってね?
「な…、なななんだよリカ姉っ…;」
「『なんだよ』じゃありませんよ、イッキ。土曜日だからって遊び歩いてばかりではダメですよ?………
もちろんケンカなどはもってのほかですっ!!!」
「―――いだっ!?いだっててててっ!?リカ姉、耳ッ!耳!!」
ギッチギチに耳を引っ張りあげながらリカ姉がキレる。
思わず悲鳴が俺の口を突いた。
「引っ張…、ちぎれる!!リカ姉って!離…いっててて!!」
「…まったくもう。手が空いてるのならちょっとお塩を買ってきて下さい。はい、お金です」
やっと開放してくれたかと思ったら、今度は500円玉を俺の手にムリヤリ握らせてくる。
ちっくしょ〜…!このババア…!
「『はいお金』っつったって、なんで俺が!?悪ィけど俺はこれからカズたちと約束あっし無理…」
「今夜のメニューは焼肉なのですが」
「謹んでお受けさせていただきます!!」
その言葉が耳に届いた瞬間、コンマ一秒、俺はガバッとリカ姉に向かって土下座した。
それはもう。
デコを床に擦り付ける勢いで。
「……ぅっわぁ〜い、やっきにくどぅわ〜〜い!!」
「イッキ、気をつけて行くのですよ!」
「うぃ〜〜〜す!!」
リカ姉への返事もそこそこに、キラキラに光る500円玉を掲げて俺は玄関の引き戸を壊す勢いで家を飛び出す。
約2年半ぶりの焼肉…!夢のメニュー、焼肉…!!
ああ、500円玉ちゃん。いや、500円玉様。
今キミはどんな美しい宝石よりも美しく光り輝いているよ…!
「―――っと、あぶねっ!?」
「ひゃーあ!!?」
「うおっ!?」
500円玉に気を取られていたら、玄関を出たところでちょうど塾から帰って来たらしい制服姿のリンゴとぶつかりそうになった。
リンゴの後ろには、驚いた顔のミカンの姿も。
「ちょ、ちょっとイッキ!?どこ行くの!?」
「コンビニに買い物!!すぐ帰る!」
アパート敷地内の駐輪場所から、愛用のマウンテンバイクを引っ張り出して飛び乗った。
そして追いかけようとしてくるリンゴを振り切るように、俺はアパート前の坂を勢いよく下り降りて行った。
「……イッキ、何慌ててるんだろ?ねえ、ミカン姉?」
「ほっとけ。あのバカがわけわかんねーのはいつもの事だろ」
アパート敷地の入り口付近で、イッキの背中を見送りつつリンゴが小首をかしげていた。
ミカンはというと特にそれを気にした風でもなく、1人先に「ただいまー」と玄関の引き戸を開ける。
「……うぉっ!?リカ姉!?」
「え!??」
突然聞こえる、予想外のミカンの叫び。
トタトタとリンゴも家の中へと急いだ。
飛び込んだ玄関、廊下の先には確かにミカンの言葉通り、野山野家長女・リカの姿があった。
「あら、お帰りなさい。ミカンにリンゴ」
「あ・あ、うん、ただいまー…って、じゃなくて!!リカ姉!?なんで!?いつ帰ってきたの!?まだ巡業中じゃ…!?」
「少し時間が出来たので帰ってきました。今日一日しか家にはいられないのですけれど」
そう言ってリカはニッコリと穏やかな笑みをリンゴとミカンに向けた。
それだけでなぜか、その場の温度が2度ほど下がる。
リンゴとミカンは蛇に睨まれたカエルよろしくその場でフリーズした。
「リリリリリカ姉………?なんか…怒っ…てる……?;」
「いいえ?なにか私に怒られるような事でもしたのですか?リンゴ」
「うううん!?そんなことないよ!?」
笑顔のリカの口からはチロチロと蛇の舌が見える。
なぜだろう。リンゴは恐怖した。
こんなふうにリカから睨まれるようなコトをした覚えはない。
たぶん、ない。ないはずだ。……うん。たぶん。
ダラダラ汗をたらしつつ超高速でここ数日の出来事を回顧していたら――――、リカから思わぬ言葉をかけられてリンゴは固まった。
「……リンゴ、ミカン。ちゃんと『約束』は守ってくれているようですね。安心しました」
「えっ…。あ…、あ、うん…!?」
リカの言葉にハッとして、リンゴはコクコクと首振り人形のように頷く。
リカとの約束――――
"イッキには絶対にエア・トレックを教えない"
そのことを思い出しながら。
「……さ、イッキがお使いから帰ってきたら今夜はみんなで焼肉ですよ。ゼロさんも今日は夕方には戻ると聞いてますから一緒に呼んであげましょう。リンゴもミカンも手伝って」
「は、はぁ〜い…」
くるりと向きを変えて台所へ向かうリカの背中におざなりな返事を返して、リンゴとミカンは互いに視線を交わす。
2人の額には、共に冷や汗が一筋。
「………なぁリンゴ」
「…な、なに?ミカン姉」
「そういやお前…、今の、"アイツ"には言ってあるのか?」
と……、リカの姿が台所へ消えるのを見計らってから、ミカンがそっと尋ねてくる。
今の「約束」の事、"アイツ"には―――ゼロには。
「…い…言ってない…」
「…そうか…」
「…………あ、あのさ、ミカン姉…。私達、もしかしてヤバイ…のかな……」
「やっべぇトコにはいると思うぜ…。俺達よりもっとイッキに近いヤツがエア・トレック始めたなんてリカ姉に知られたら…」
―――――『死ぬかも』
そのときリンゴとミカンの意識は、その4文字の言葉でぴったりとシンクロしたという。
「焼肉焼肉〜♪」
家から飛び出した俺は自慢のマウンテンバイクに跨り、アパートから公園までの道のりをスイスイと駆っていた。
「やっぱ焼肉と聞いたら、ゼロさんも誘っとかねーとな〜」
家にいないとくれば、ゼロさんだったらきっと公園でエア・トレックの練習か、コンビニでバイトのどっちかだろ。
とりあえずコンビニよりも距離的に近い公園の方から探していくことにした。
「喜ぶかなぁ、ゼロさん…」
ほっときゃあのヒト、毎日パンと牛乳だけで細々食いつなぐからな。
普通のメシの日でも誘ってあげたら喜んでメシ食いに来るくらいだから、「今晩焼肉っすよ」って教えてやって俺の分分けてやったら、そりゃすっげー喜びそうだ。
『ありがとうイッキくん』なんて言って笑うゼロさんの顔を想像すると楽しくて、ついつい俺はニヤけてしまう。
でも、いざ公園に到着してみればゼロさんの姿はそこにもなく。
「あれ…、ココにもいねーのか…」
誰もいない公園の入り口で、足を止めて呟いた。
「練習かと思ったけど、ココでもねーならやっぱバイトか…?」
と、俺はゼロさんがバイトしているコンビニへ向かい、バイクのペダルを踏み込もうとした。
そのとき。
――――シュアッ!
「…あ。」
小気味良い音を立てて、家と家の間からいつかの女の子が風のように飛び出してきた。
ブーツ状のエア・トレックを履いた、セーラーワンピースの女の子。
数日前に、ゼロさんと一緒に居た……
「あのときの可愛い娘…」
たいして広くもない公園をエア・トレックで一足跳びに飛び越え、女の子はその向こうの空へと身を躍らせていた。
その姿を、俺はただ呆然と目で追う。
「…スゲー気持ちよさそうに飛んでんなぁ…」
その姿はまるで『鳥』だ。
大空を風のように滑空する『燕』。
「………一体どんなキモチなんだろうな…」
ああやってエア・トレックで空を飛ぶのって。
…『あのコとも仲良くなれるかもしれませんよ?』
ふと、女の子が飛ぶその姿に、ゼロさんの練習してる姿が重なる。
――――――『僕も待ってますから』
数日前のゼロさんの、そんな言葉をも―――彼女の飛ぶ姿と一緒に思い出して。
「エア・トレック…、か…」
鼻っ柱をこすって、へへッと笑った。
『イッキくん』って言って、彼女と……ゼロさんとが、とびっきりの笑顔で俺に向けて手を差し出してくれてる。
そんなヴィジョンがなんだかリアルに想像できる。
もしまた次に誘ってくれたら…始めてみてもいいカモ、なんて思った。
「これ以上引っ張りすぎてヒかれても困るしなー。そろそろ満を持してこの天才もエア・トレック界に殴り込みを……
って、やっべ!それよっか早く塩買ってかねーとリカ姉に殺される。…ゼロさんトコのコンビニまで行ってみっか」
そうして俺はまたマウンテンバイクのペダルをガシャガシャと漕ぎ出すのだった。
つづく
NEXT→06:コンビニバイト/
←PREV(前話へ)
やっと原作1巻突入?
すもも