いったいどのくらいの時間潜っただろうか。
ジャズの声を聞き、降り始めてすぐのようにも思えたし、永遠にたどり着けないんじゃないかってくらい長い時間を潜っていた気もする。
水面から差し込んでいた光もだんだんと届かなくなり、深く潜るほどに水は濁り、周囲の闇はどんどん色濃く寒々しくなって――――
やがて僕は、一切の光も届かないような真っ暗闇の海の底へとたどり着いた。
「ジャズ……?」
重くへばりつくようなヘドロでよどんだ海底へ音をたてないように降り立った。
そして手の届く範囲にだけ聞こえる程度のひそやかな声で、僕はおそるおそるとジャズの姿を探した。
「……ジャズ…?どこですか…?」
周囲に広がるのは、まるで"あの日"の…幼いころに過ごしてきたあの終わりない絶望の日々を映すかのような………深い闇。
声を荒げちゃいけない。
きっと"見つかって"しまうから。
何か得体の知れないものが―――"あのひと"のあの目が―――あのころと同じように、この闇の中僕を見ている気がするから。
そう考えたら、とたんにブルッと恐怖で震えがきた。
両腕で体を抱きすくめ、身を固める。
「……どうしよう…」
……恐い。
やっぱり何かの気配がする。
ジャズじゃない、何か―――厭な気配。
気のせいかもしれない。でも気のせいじゃないと思う。
手を伸ばした先に、きっと居る。
この一寸先も見えない闇の中で何者かが息づいてる。そんな予感。
ドクドクと大きく早鳴る僕の心臓の音。
その音を聞いて、そいつが来るんじゃないか。
嫌な息遣いがすぐ傍で、耳元で聞こえてくるんじゃないか。
そんな恐ろしい疑心暗鬼で潰されそうになったとき。
「……は…」
―――――ふと横に、人の顔を見た。
肩越しに僕の顔をのぞきこむかのように突然現れた人の横顔。
だけど"それ"は、おおよそ普通の人の顔の大きさをしていなく。
僕の倍は大きなその顔の、瞳孔の開ききった真っ黒い瞳が、長い髪の隙間からギョロリとこっちを見た瞬間。
「ふぎゃあああああああああっ!!!」
もう心臓が口から飛び出るんじゃないかってくらいに驚いた。
逃げ出そうにも慌ててもつれた足がさらにヘドロに取られてしまって、僕はその場で顔からコケてしまった。
腰が抜けてうまく立ち上がれずにいた僕の上に、"そいつ"はぞろりと覆いかぶさってくる。
「ひ……ッ!!」
ぎょろぎょろとした瞳に顔を覗きこまれ、僕は思わず頭を抱えて身をちぢこめた。
「うっ、う…、ひぃ…っ」
それまでとは別の意味で恐怖した。
僕を見下ろす"それ"は、髪の色こそ違うけれど僕自身とそっくり同じ顔をしていたから。
いや、違う。僕じゃない。
この嘗め回すような視線は"あのひと"の……お父さんの顔だ。
僕の上に覆いかぶさる影がそっくりそのまま"あの日"の"あのひと"の姿と重なってしまって、僕の体は恐怖ですくんで固まってしまった。
そしてそのとき同時に、僕は理解した。
ジャズのようでジャズじゃない、あの気配の持ち主。
ジャズと似た、ジャズに似せたあの声色を使って僕をここまで呼び寄せたのが誰だったのか。
身を抱える僕の顔色をうかがうかのような、"そいつ"のなまぬるい息づかいが頬に…首筋に触れて、ぞわぞわと鳥肌が立った。
「…ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい…。ころさないで…。ごめんなさい、許して…。僕を許して、……お父さん……」
ぎゅうっと強く頭を抱え、目を瞑り。
僕はただただ時間が過ぎ去るのを……闇が僕の元から去っていく時を待った。
『……ゼロ』
「ひ…っ」
しばらくの間じっと僕を観察していたらしい"それ"。
そばにあった息遣いが少し離れたと思ったら、"それ"はジャズの声でもって僕の名を呼んだ。
ジャズの声で―――なのに、喋る感じは"あのひと"と同じもので―――、僕は全身を舐めまわされるようなおぞましさを感じた。
―――やめて欲しい。ジャズの声で、僕の大好きなジャズの声でそんな風に僕を呼ぶのは。
聞きたくなくて、ますます僕は自分の耳を塞ぐその手に力を込める。
『ゼロ、…聞』
「……いやだ、やだ!うるさい!!ジャズの声色でそんな風に僕を呼ぶな!!お前なんか、お前なんか―――!!
うあっ!?」
ズガガッ!!
『ぐっ……!!』
泣き叫ぶ僕の声を掻き消し、突然、稲妻の速さで無数の光の矢が上から一気に降り注いできた。
僕の目の前から、あの悪魔を排除しようとするかのように。
ジャズの声を発する"それ"の体へ―――背に、腕に、その喉に容赦なく矢は突き刺さって。
"それ"の苦悶の声とともにあふれ出た血が、濁った海底の水をさらに黒く濁した。
『……ぐふ…、………っは………ゼロ……』
「いやだ…」
『…聞け…』
「いやだ…。いやです、なんでですか…?もうジャズの声で僕を呼ばないで…。……汚さないで……」
「――――。……でないとお前は俺の言葉を聞こうとしないだろう?」
「え……」
ジャズの声じゃない、……"あのひと"の声でもない。
でもそのどちらとも似たような、それでいてどちらにも全然似てない別の―――男っぽい低い声が僕の耳をくすぐって、僕はゆっくり目を開いた。
そのとき僕は、僕がここに来てから一番最初に聞いた"声"のことを思い出した。
聞こえたようで聞こえなかった、僕を呼び止めた誰かの"声"。
きっとこの声だ。
きっとこれが、"こいつ"の本当の声――――
「……今度は、届いたか?」
「…………」
「答えたくはないか……。
お前はいつだってそうやって俺のことを自分の目から隠し、遠ざけてきたな…。
いや…、お前がそうする理由も俺は理解している。小さなお前が恐れ戦慄く姿も、悲しみも絶望も俺は共に見てきた。
…だがもういいだろう?ゼロ…。
もう耳を塞ぐ必要も、目を覆う必要もない。
―――俺はお前の力だから。お前が生み出した、お前の力だから…。だから、もう恐れるな…」
小さく体を縮こめる僕に、"そいつ"は哀しみに暮れたようなそんな声で、優しく優しく語りかけてくる。
それでも僕にはまだ、"そいつ"の姿を見るだけの……言葉に答えるだけの勇気がなくて。
黙っていたら、"そいつ"の大きな手が……長く爪の伸びた太い指の1本が、さらりと僕の髪をなぞった。
「ゼロ……。まだ俺が怖いか?もうお前はそんなに弱くないのに。お前はあの"夜"を越えたはずなのに」
「………そ…れは…、僕のそばに…ジャズが居てくれたから、です……。僕はまだ、たった1人でお前と向き合えるほど強くなんてなれてない……」
「そうか……。いや、いい…。なぜお前が俺を嫌悪するのかも知っている。
仕方がない、"あいつ"がお前にしたことはそれだけお前の心に深い傷を負わせたのだから。
……だがゼロ、理解しろ。
お前が何よりも恐れている…消したいと思っている男のその存在すらも、今はお前を形作るものの一つ。
お前という存在に、なくてはならないものでもあるということ」
「……"あいつ"って…?君の事でしょう?」
「違う。俺はお前の力であって、お前が今頭の中に描いている男とは違う」
「違うって?…一体それってどこら辺がなんですか?」
確かに髪の色は違うかもしれないけれど、それでも"あのひと"と同じ顔で―――"こいつ"は何を言っているんだろうって思った。
「…やっと俺を見たな、ゼロ。…答えたな」
「え…、あ…」
"そいつ"への反発心からか、僕の体の硬直はいつの間にか解けていた。
しりもちついた格好ながらも、僕は"そいつ"と向かい合う。
「…お前はあの時、力を欲していた。か弱い己を救えるだけの力を、長き苦痛から逃れるための大きな力を。
だが…目の前にある数少ない材料で練り上げたお前の"力"は、奇しくもお前が忌み嫌うものとそっくり酷似していた…。
だからお前はその力を恐れ手放した。……目の前にある材料で作れるものはそれしかなかったというのに」
「………それが、…君…?ですか…?」
「そうだ。俺は悲しかった。
お前に否定された俺はこの力をお前のために振るうこともなく……、お前の瞳に映らぬように、この闇の奥底に…こうしてがんじがらめに閉じ込められた」
「閉じ込め…られた…?」
僕の上に四つん這いに覆いかぶさる"そいつ"の体を見上げれば―――
腕や肩、背、脚。体中にいくつも突き刺さる鋭い棘のついた楔(くさび)とそれにつながる重苦しい色合いの太い鎖。
それらが、さっき上から降り注いできた光の矢にぼんやりと照らされて、がんじがらめに"そいつ"の体を海底に縛り付けているのが分かった。
誰にそんなこと?なんて…聞かなくても理解(わか)る。
僕が何より恐れた"それ"を僕の目から隠して守れるような人物は、僕のこの心の中にはたった1人しかいないから。
「ずっと待っていたんだぞ?ゼロ…。お前が俺を見つけてくれる日を。俺を恐れずにいてくれる日を。
……さあゼロ。よく見ろ。俺は…俺の姿は、今お前の目にどんな風に映っている?」
「……どんな風に…って…言われても……」
問われて、僕は改めて"そいつ"の姿を見上げた。
――――僕に覆いかぶさる大きな身体。僕によく似た顔。
でも僕よりも頭二つ分は大きい、黒い毛におおわれたその巨躯は獣か悪魔のようで……。
小さな僕があのころずっと見上げていた"あのひと"の姿と重なる。
……でも、僕の目をしっかりと見据える"そいつ"の目はとても穏やかで。
あのころ―――小さな僕を脆弱な獲物としてしか見ていなかった獣のような"あのひと"の目とははっきり異なっていた。
「……似ていても違うから、恐れるなって言いたいんですか…?」
「同じでないのは、今のお前にならもう解るはずだろう?ゼロ。俺は俺だ。そしてお前自身でもある…。
…だから、目を逸らすな。俺を……俺のまま受け入れて欲しい…。
俺の名を、『お前に』呼んで欲しいんだ…ゼロ……」
そう言った"そいつ"の目が、苦しそうに悲しそうに細められた。
こんな水の中じゃ涙なんて流したとしてもわからないけど……確かにその時、"そいつ"は泣いた…んだと思う。
つらそうなその表情が、ヨークシンでのあの夜に初めて泣いたジャズみたいに見えてしまって。
僕は思わず、"そいつ"の首に手を伸ばして―――"そいつ"の事を抱きしめた。
「……ゼロ…?」
首元に抱き付けば、"そいつ"の、僕に似た長い髪がふわりと頬に触れた。
たくましい筋肉で隆起した肩越しにはボロボロの黒い翼と、その奥でふらりふらりと横に揺れる長く太いしっぽが見える。
………もしかして嬉しいの?
「ふふ…」
「…ゼロ…! …あっ、ありが」
「……なんか」
「…!?」
「…なんだかすごく滑稽ですよね…」
「………一体…何が、なんだ?」
抱きしめた"そいつ"の背に刺さる、何本もの楔と…そして光の矢。それを見て、僕は思う。
がんじがらめに囚われ、この場所から一歩も動けずにいただろう"こいつ"は自分のことを僕の力だと言った。
僕の心が生み出した、僕自身の"力"。
そして、それを認めたくなくてこうして拒絶の意思で"こいつ"の背に刺さったこの光の矢『レイ・フォース』もまた、僕の能力。…僕の心の一部だ。
この頑強な鎖は……僕ではないもう1人の僕のものだろうけど……それもまた僕なんだ。
――――僕自身に縛られ囚われた…僕の力。
「ふふっ…、すごく滑稽です…」
自嘲の笑みが口から漏れた。
そしてそんな僕の言葉を聞いた"そいつ"の口から次に漏れたのも、優しげな微笑をにじませた声だった。
「…そうやって俺を笑えるなら、お前はもう大丈夫。
その光の矢はお前にしか抜けないんだ。…俺をここから解放してくれ、ゼロ……。そして―――」
「………『俺の名前』?」
"そいつ"の言葉に続いて僕が聞き返すと、"そいつ"はゆっくりと頷いた。
「今なら、お前の耳にもきっと届く」
「…うん………いや、ううん。ごめん、僕…君の名前たぶん知ってると思う」
「えっ…」
今までもずっと、耳に届いてはいたんだ。
だけどそれを思い出すことを…知る事を僕は拒んで。
だからジャズも、僕のために僕の耳を塞いで聞こえないようにしていた。
でも、本当は知っていたんだよ。
「ゼロ……?」
「………今まで縛り付けてて……。ごめんね、…『リバイアサン』」
それが"君"の――――"僕"の、名前。
つづく
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またキャラが出てこない…
すもも