ゆらゆらと霧が揺れる演習場の上で、さくりと藍染の草履が砂を噛む。
藍染の前ではゼロが、無防備にも瞳を閉じ、その手に持った斬魄刀のみに心を傾け集中していた。
そんなゼロをじっとそばで観察していた藍染だったが、途中ゼロの霊圧にわずかながらの変化を感じ取り、顔を上げた。
「…ほう?驚いたな…、僕の予想よりわずかだが早い…。副隊長クラスに匹敵するなんていう涅隊長の見立てもあながち間違いではなかったということかな?」
不気味な笑顔を口元に貼り付け、独り言のように呟く。
藍染の顔に掛けられた黒縁の眼鏡には、ゆっくりとまぶたを開くゼロの姿が写っていた。
「………。」
目を開けたゼロ。
藍染の斬魄刀『鏡花水月』の能力により、まだゼロには傍に立つ藍染の姿は知覚できていない。
ゼロは無言のまま、ただ手にしていた『浅打』にじっと目を向けていた。
――――――『リバイアサン』。
「それが、君の名前……ですよね?」
寒々しく静かな、真っ黒に濁った海の底で―――幾本もの"光の矢"にほんのりと照らし出される"獣"の顔。
驚愕に見開いた目で僕を見てくる"そいつ"の顔を、僕は少し申し訳ないような気持ちで見上げ、もう一度その名を呼んだ。
「……ゼロ…、何故」
驚いた表情から一転、目を細め悲痛な表情で僕を見てくる"そいつ"。
首元に抱きついていた僕の両肩を掴んで押し戻し、"そいつ"は僕に問いかけてくる。
「…名前を呼んで欲しいって、君が言ったのに変な顔しますね…」
「確かにそうだが…、俺が訊いているのはそういう事じゃなくてだな…」
……大丈夫。分かってますよ。君が僕に訊きたいこと。
「…大丈夫…、分かってます。なんで「知ってるか」って…訊きたいんですよね?教えられなくても、知ってますよ。…元から知ってたんだ。
それを、君が僕に思い出させた。だから君が驚くことないでしょ?…ずっと見てきたんだ。聞いてきた『名前』…。僕が小さかったから、覚えてないと思った?」
……そうだ。僕、本当はずっと知ってたんだ。
知りたくなかったけど。
覚えていたくなかったけど。
「"黒き鱗鎧の獣(リバイアサン)"」
その……名前。
「具現化系念能力者だった、…お父さんの…能力。それが君の"元"…、ですよね?」
…『怖い』はずだよ、君のその姿。
あの時のお父さんの姿そのものなんだもん。
「……すまん。やはりお前にとっては何より嫌な思い出だな……」
眉根を寄せ、"そいつ"はより沈痛な面持ちで僕の前にこうべを垂れた。
僕の心の中に巣食う"そいつ"は、きっと僕の心それ自体がわかる。
僕の心の叫びを、悲しみを、痛みを痛切に感じるからこそ、"そいつ"の口からはそんな言葉が漏れるんだ。
――――君自身のその姿が、その嫌な思い出の象徴にもかかわらず。
――――君が、君自身が自ら僕に思い出させたにもかかわらず。
…本当に滑稽だ。
だけど……。
だけど僕は、だからこそ君を――――
「すまない、ゼロ…」
「…君が謝らなくてもいいです。いずれ克服しなきゃならなかったことが、今目の前に現れた。それだけのことだから…」
そうだ。小さなころ、ずっと見てたんだ。
ずっとずっと長い間。…僕は見ていた。
―――いつも、堅牢な黒い念の鎧で己を守っていた……お父さんのその姿。
いかにも怖そうな。
いかにも強そうな。
"悪魔"のような"バケモノ"のような、そんな黒い鱗と毛で覆われた醜い鎧(カラ)を、あの人は好んで纏ってた。
そう。その姿は、今僕の目の前にいる『リバイアサン』とちょうど同じ感じで。
強かったけど……"弱かった"お父さんは、その姿でもってお母さんや僕を力で虐げて、――――自分の心を守ってた。
お母さんを殺して、僕を殴りつけて……、傷つけて小さな僕を"ころし"に来る時だって、あの黒い鎧で自分を守っていなきゃ何もできなかった…臆病なお父さん。
その過剰な力で誰かを―――自分より弱い誰かを傷つける事でしかあの人は自分の強さを、誇りを保てなかった。
いつも僕の上に覆いかぶさっていたお父さん。……ううん。あれはもう、優しかった僕のお父さんじゃない。
お父さんの顔をしただけの、醜悪な…黒い鱗鎧を纏った獣。
…まさしく、今僕の目の前にいる『リバイアサン』とそっくり同じ姿の。
(――――お父さんの顔をした、僕よりもずっと体躯の大きな……黒い獣。)
毎日毎日ずっと"その姿"を見ていたから…、僕はこの"獣"を練り上げることができた……。
だけど自ら作り上げたその"バケモノ"の……その姿のあまりの恐ろしさに、小さな僕のココロは耐え切れず。
すぐさま泣き出して、手を放したんだ。
毎日毎日、小さな僕を"ころし"にやってくる悪魔そっくりの…巨大な"バケモノ"。
怖くて怖くて、その姿ごとジャズに押し付けた能力。
ジャズは何ひとつ文句を言うことなく受け取ってくれた。
それが……君だ。
「つまり…、僕の元々の素質は『放出』…じゃなくて……『具現化系』で。
そして君は、"黒き鱗鎧の獣(リバイアサン)"を纏ったお父さんの姿を見て僕が作り上げた……悪魔(おとうさん)を喰らうバケモノ…。
……そうでしょ?…"闇食い(リバイアサン)"…」
思い出したんです。―――全部。
君の名前がこの脳裏をかすめたその瞬間に。
静かにそう問いかけると"そいつ"は一度苦い顔を見せて、それからゆっくりと頷いた。
「………そうだ。…よく…思い出してくれたな…。よく俺を受け入れてくれた…。一度は…、いや…一度ならず二度もお前を壊そうとしたほどの忌々しい記憶を。
……すまん。本当にすまない。…ありがとう…ゼロ…」
と、"リバイアサン"は僕の頭をも軽く鷲掴みできそうな大きな手で―――鋭い爪の生えた長い指先で、僕の目元を撫でた。
……涙でも拭いてくれてるつもりなのかな。
こんな海底で、涙なんて流れるはずはないのに…。
「…もう泣くな、ゼロ…。そんな顔をするな…。"俺"はあの男とは違う。お前を傷つけるなんてこと、絶対にしない。
こんな姿をしていようとも俺は…俺の存在は、お前を守るために生まれたのだからな…。"アイツ"と同じ…、だが"アイツ"は俺のこの姿を許しはしなかった。だから俺はここに閉じ込められた。
…でも、"アイツ"が居ない今なら―――俺がお前のために力を振るう、お前を守るそのためになら。……"アイツ"もきっと許してくれる。
何故ならお前は自分の足でこの場所に…俺の前へと来たのだから。……俺の声はお前の耳に届いたのだから」
「……"アイツ"……」
「お前もよく知ってるだろう?」
そう言って、少し笑った"獣"。
がんじがらめに鎖に縛られたままで大きく身をゆすった。
するとその動きに合わせて、いくつもの頑強な太い鎖がその存在感を示すかのように、じゃらら、じゃらっと大きな音を立てる。
「………ジャズ…」
「――ォオッ!!」
僕の呟きをかき消すかのように、"獣"が短く咆哮した。
"獣"の背から生えたボロボロの翼が、わさりと開いてはためく。
丸めた肩に"獣"が力を込めると―――それまで光の檻のように何本も"獣"の身体に突き立っていた僕の"光の矢"が全て同時にはじけ飛んだ。
はじけた"光の矢"は無数の光の粒となって、水の中に広がる。
それはキラキラと闇地に金粉を撒いたみたいな、とても美しい光景だった。
そして、舞い散る光のカーテンのその向こうで、"獣"の…闇より深い黒い瞳がじっと僕を捉えていた。
「…ゼロ。この"光"達と同じく、今は俺もお前の力だ。いや、お前の力としてくれ。
もう一度、恐れずに俺の名を呼んでくれ…。ゼロ……」
僕の前に、じゃらりと音を立てて差し出される"獣"の手。
静かで…とても穏やかな"闇"が、僕を見据えてそう言った――――
「…どうだいゼロ君、見つかったかい?君の斬魄刀は…。君自身の魂の声は、君の耳にちゃんと届いたのかな?」
どこかから藍染隊長さんの声が耳に届いて、僕の意識はハッとあの海底から引き上げられた。
何が起こったのかとあたりを見回せば、"あの場所"に行く前と同じ藍染隊長さんの作った『鏡花水月』の濃い霧が一面に広がっていた。
……一体どのくらい僕は"あそこ"にいたんだろう。
僕の手には『浅打』と呼ばれたあの剣が、"あの場所"へ行く前と同じように、しっかりと握られたままだった。
――――夢。
……じゃないよね。
(『俺の名前を呼んでくれ』と、そう言った"君"の声が――――"君"の『名前』は、まだ僕のこのココロに残っているから…!)
「ゼロ君?」
「……あ……、はい。声は…届きました。
……今までずっと、僕が見ようとしてこなかったもの…。聞きたくないって耳を塞いでいたもの…。大きな大きな…"黒い獣"の、その声が」
藍染隊長さんの問いかけに応えるように、僕は手に持った『浅打』を再びぎゅっと握りなおして正面に構えた。
「…僕の中に、ずっとずっと囚われてた異形の獣――――
とても恐ろしいものだと思ってました…。ずっと知らない振りをすることで逃げてた。
でも本当は僕に似てわりと滑稽で…。今は、……今なら、"そいつ"の事も少しは愛せる気がします。
………だから………出て来て、『闇食い(リバイアサン)』。僕の心に冷たくよどんだ、暗く深い闇の底から」
剣を構え、僕がその名を呟くと同時に―――突然、黒い光と獣の咆哮のような重低音が、手に持った『浅打』から吹き荒れた。
そして目も開けてられないような爆風の中、『それ』は一気に生まれ変わる。
白銀の刀身がわずかな水しぶきを散らして砕けて消えたと思ったら、その中から少し幅広の長い黒剣が一振りともう一振り短めの黒剣が現れた。
どちらも刃が鋭いのこぎり状になっていて、まるで大きな獣の牙みたいだ。
長剣を握る僕の右腕には、長剣の鍔に結び付いていた長く黒い鎖がいつのまにか、じゃらりと絡みついていた。
つづく
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すもも